無理のあるリメイクドラマ

アメリカのドラマを日本版としてリメイクする価値はあるのだろうか。

日本の平均ドラマ制作費は、アメリカの平均ドラマ制作費の1/10ほどと言われている。その制作費の違いが痛々しいほどスケールダウンした映像を生み出してしまう。アメリカ版のドラマでは、摩天楼を見渡せるオフィス、広大な敷地の豪邸、重厚な家具が並ぶ会議室などが映像に説得力をもたらす。日本版としてリメイクされると、チープなものに差し替えられてしまい、どうしてもパロディーのような世界観にシフトされてしまう。これはアイドル歌手がビヨンセをカバーするようなものだ。

そして、何よりも大きな問題は文化の違いだ。本家のアメリカ版で爽快に感じる大胆な行動や皮肉なセリフは、日本文化のフィルターを通せば、強い違和感を生み出す。ポケットに手を入れたまま上司の前で熱弁したり、会議室のテーブルの上で書類を滑らせて相手に渡したり、とぼけた表情で皮肉なジョークを言うことは、日本人俳優が無理しているようにしか見えない。漫画のように不思議な世界設定でもない限りは、皮肉屋で自信家のキャラクター設定などは日本人には不自然すぎるのだ。

打開策は1つだけある。日本のお家芸でもある主人公が皮肉屋で自信家のアメリカ人とぶつかって体が入れ替わるシーンを冒頭に追加すれば、キャラクター設定の違和感はなくなりそうだ。ただ、こういう手法だと世間からリメイクドラマと言われずコラージュドラマと言われそうだ。

輝けない透明容器

透明容器のシャンプーが存在しているが、使用される環境との相性が良くない。

一般的に浴室のシャワーラックの後部に奥行きもなければ、バックライトもないので、広告の写真のように光がしっかり回り、美しい透明感を保ったままディスプレイすることはできない。カラフルな透明容器になれば、光が回らない空間で濁った色が不気味になってしまう。つまり、透明容器は光が回る空間に置かれるかどうかで印象が大きく異なるということだ。

20年前に登場した半透明ボディの初代iMacでも同じような問題を感じた。それまでの無骨なパソコンとは全く異なるデザインで、世界中で大ヒットした。明るい店頭で見るとカラフルな半透明ボディは美しかったが、狭くて暗い大学生のような部屋にiMacを置くと、その半透明ボディは薄汚い印象でがっかりした記憶がある。

インスタで透明容器のシャンプーを検索してみると、シャワーラックに置かれた写真はほとんどない。浴槽のへりや洗面台など光の回る広い場所に移動させて撮影されている。中には自然光の入るリビングまで移動させて撮影されているものもある。透明容器のシャンプーが本来置かれている場所では輝けないと証明されているようなものだ。

サッカーの監督を商品担当者にするべきだ。きっと、練習場で活躍できる選手よりも試合会場で活躍できる選手を起用するはず。

多すぎる補足情報

よく目にするテレビCMの中に補足情報が多すぎるものがある。カードローンのCMでは、次の画面に切り替わるまでの2秒ほどの間に融資額などの200文字ほどの小さな補足情報が画面下に表示される。集中しているテレビ番組に対してCMは箸休めの時間だ。そんなリラックスした状態の2秒間で得られる情報は、10文字くらいが限界ではないだろうか。業界のルールでこれらの補足情報を表示させなければいけないことになっているのかもしれないが、録画して一時停止しなければ得られない情報は、見えていない情報に限りになく等しい。そもそも、15秒のCMの中ですべてを理解しようなんて誰も思っていないはずだ。

家電量販店でそれほど欲しいと思ってもいない人が炊飯器の特徴を最初から詳しく説明されても情報は全く入ってこない。この段階では、「10分で炊き上がります」とだけを言われた方がすんなり特徴が入ってくる。その簡潔な特徴に興味を持った人だけに「専用の1人分の米を使用した場合のみ10分で炊き上がります」と補足を伝えることが伝達方法としては効果的だと思う。もちろん、そこで「専用の1人分の米を使用した場合のみ」という限定された仕様情報を聞いて興味を無くす人もいることは想定内だ。

「テレビCM→Web」や「テレビCM→店頭」のような分割した伝達プランを考えることが重要ではないだろうか。カードローンのCMが分割せずに一度に詰め込みすぎてしまっているのも皮肉なものだ。

「計画的な伝達プランを立てて、詰め込みにはご注意ください」

安定しない音量

動画配信サイトが当たり前のようになった今でも不便なことが一つある。それは一定レベルで安定しない音量を手動で調節しなければならないことだ。

例えば、YouTubeのような動画配信サイトでは、テレビと同じように頻繁にCMが入ってくる。そのCMの音量がコンテンツの音量よりも異常に大きくなっていることが多い。さらに、CMの音量も一定ではないので、音量を一定にするためにはCMごとに微妙な音量調整が必要になる。最終的には微調整することが面倒になり、CMになるとミュートにして完全に音を消すことになる。これが原因で視聴することを断念したこともある。

そもそも、こんな扱いを受けているCMに価値があるのだろうか。がさつに視聴を妨げる大音量のCMを通して、広告主、宣伝される商品、背景で流れる音楽すべてに対して嫌悪感を感じる人も少なくないだろう。イメージを損なわない安全なCMにするためには、音量が一定になっているかどうかを誰かが真剣に管理することが必要だ。

アプリケーション内限定ではなく、スマホやPCから出力されるすべてのコンテンツごとの音量を自動的に一定にする機能をデフォルトで加えるという改善策もある。なぜこのことに気づけていないのかが不思議だ。こういった問題にこそAIの技術を活用すべきだ。映像や音楽コンテンツ一つひとつを瞬時に厳密な解析をして、様々な環境ごとに合わせて、一定に聞こえる音量に調整してくれれば最高だ。

声で明日の天気を聞き出すことよりもAIの価値ある活用方法だと思う。

窮屈すぎる座席

東京を走る電車のほとんどの座席は、1人分がくぼみで明確になっている7人掛けロングシートだ。このくぼみが2人分くらいのスペースを確保しようとする無礼な人をうまく排除する。しかし、この1人分のスペースは非常に狭い。おそらく、快適に感じられる限界点は、ロングシートに座った全員が細身の男子高校生の場合までではないだろうか。メタボリック体型のサラリーマンが2人以上混じれば、隣からの圧力に苦痛を感じて座ったことを後悔した経験がある人は少なくないのではないのだろうか。通勤ラッシュばかりを考慮して、無理にたくさん座らせることだけのために設計されているように感じる。電車本来の役目は、「我慢しながらの移動」ではなく「快適な移動」のはずだ。

電車の中はスマホを使用する人だらけだ。「電車に乗っている時間=ネットにつながっている時間」と言ってもいいくらいになってきた。メッセージを打ったり、画面をスクロールするためには、自然とひじが1人分のスペースの外に出てしまう。つまり、スマホを使用するメタボリック体型のサラリーマンのシルエットを設計図面に配置しながら検証すべきなのだ。世界に誇る日本の鉄道がこういった社会的な変化に敏感に対応できていないことが非常に残念だ。

2020年の東京オリンピックまでには東京のすべての電車を6人掛けロングシートに変更して、1人分のスペースを現状の117%にするべきだと思う。そうでなければ、オリンピック招致での堂々たるプレゼンが「おもてなし詐欺」だったと世界から批判を受けることになるだろう。

 

最初に必要な共有力

現在の日本社会が積極的になっている働き方改革において、最も力を入れるべきことは共有力の改善だと思う。

社会に出たばかりの新入社員が一週間に一度集まり、それぞれの問題を共有すれば、一人で判断した解決方法よりも効果的な解決方法をみつけられるはずだ。また、他人の問題と解決方法を共有することで、短時間で多くの知恵を吸収することができる。定期的な共有する時間をすべての会社で標準装備することが働き方改革で最初にすべきことではないだろうか。

社会人1年目の社員が「電話を受けた時に先方の社名や氏名をメモする」という発想が思い浮かばず、思ったほど頼りにならなかった自分の記憶力に落胆しながら、うろ覚えの先方の社名を伝えて、先輩社員を混乱させることはよくある。これを大した問題として考慮せず、そのまま数年放置すれば、このグダグダなコミュニケーションが会社の中で標準装備されてしまうだろう。義務教育の段階で共有という授業を作り、社会に出る前に共有を標準装備させるべきかもしれない。

以前に在籍した会社では、大学生や大学院生のアルバイトスタッフが曜日ごとに入れ替わるため、社員から教わった方法や指摘された箇所をイラストと文章でわかりやすくノートにまとめ、アルバイトスタッフの間でしっかりとした共有システムを作っていた。それは誰かに強制的に作らされたものではなく、厳しい要求に最大限応えるために彼らが自発的に生み出したものだ。彼らが優秀な社会人になっていることは言うまでもない。

曖昧好きな日本人

日本人は曖昧な表現をよく使う。職場、学校、家庭での会話では常に曖昧な表現があり、相手の気持ちを性格に把握できない場合が多い。

「この曲好きかもしれない」

この場合、好きになりかけている不確かな状況かもしれないが、ほとんどの場合は周囲とのバランスと取ろうとしているはずだ。断言せずに少しグレーゾーンに持って行っていた方が、相手や第三者がその曲をあまり好きではないという流れになった時に対立関係から逃げやすい。一種の危機管理と言えるだろう。意味の捉え方が複数ある表現で意思表示ができるおかげで、この国は平和を維持してきたのかもしれない。

「そうですね」

インタビューに答えるスポーツ選手ほとんどの第一声がこの言葉で始まる。本来は同調を表す言葉だが、考える間の時間稼ぎに使用されることが多い。本来ならインタビュアーの意見に同調していないのに「そうですね」では混乱を招く。しかし、この言葉が変な勇気を持たせている。これまでのスポーツ選手が「そうですね」を多用してきたことで、意見や考えがまとまっていなくても、「そうですね」でつなげば、まともに答えているように錯覚させているのだ。

こんな曖昧な文化でもよかったと思えることが一つある。知人と思われる人に街で声を掛けられたものの、全くその人のことが思い出せない時に最終兵器でごまかせることだ。

「どうも」

可能性の低い仮説

事実である可能性の低い仮説を立てることが習慣になっている。

例えば、見知らぬAさんが混んでいる電車の中で大きく股を開いて横柄に立っているとする。単純に電車に乗って来た時から横柄に立っていたと考えることが最も簡単ではあるが、あえて少し可能性の低い方向で仮説を立ててみる。足を投げ出して熟睡しているBさんの前にAさんが立ったため、AさんはBさんの足をまたぐように立つことになったが、Aさんが気づかない間に熟睡中のBさんが無意識に足を引っ込めた。こんな風に可能性の低い仮説によって登場人物の印象をガラリと変えることがおもしろい。

過去に在籍した会社の入社試験の時もそうだった。最終面接後に交通費として会社から受け取った封筒には請求額よりも1万円多く入っていた。そのことに気づいた時、単純に経理担当者の間違いとは考えず、また少し可能性の低い方向で仮説を立てていた。それは、人間性を量るための最終試験として、会社がわざと1万円多く入れたという仮説だ。実際は経理担当者の間違いだったのだが、人間性を量るためには、うってつけの方法ではないかと思う。しかし、健全な会社としては姑息な手段を使う訳にはいかないのだろう。

少し無理があり、可能性の低い仮説を立て続けることは、10年後に優等生になっているはずのAIと戦えるユニークな思考につながるのかもしれない。きっと、完璧な考えで溢れる10年後には、ダメージジーンズのような不完全な考えの方が価値を持つはずだ。

トレーニング不足の歌手

スポーツ選手は一度引退すれば復帰することはほとんどないが、日本の歌手が一度引退してから復帰することはよくある。しかし、復帰した歌手が全盛期を超えるパフォーマンスをすることはめったにない。ただ、もう一度やってみたいという本人の意思だけで、復帰ができてしまうプロ意識のない生ぬるい環境が存在する。

スポーツ選手が試合に出るためには、過去の実績よりも周囲の選手や監督を納得させられる現在の実力が求められる。その一方で名前は同じでも長年の主婦生活などでトレーニング不足で、質が落ちているにも関わらず、高額なギャラでテレビに出演してたり、ライブ活動をする歌手がいる。賞味期限切れの高級和牛を売っているくらいの詐欺だ。ブランド肉の品質管理に厳格な基準があるように、歌唱力にも厳格な基準を作るべきだ。

ボイストレーナーやミキサーなどで組織を作り、発声、音程、リズムなどを半年ごとに厳正にチェックして、一定のレベルに達している人だけに歌手としての免許を発行するシステムを取り入れてはどうだろうか。ボイストレーニングを一切せずに自分の生活を安定させるためだけに復帰しようとする詐欺師を排除できるはず。いつか復帰するかもしれないと思う元歌手はボイストレーニングを継続的に行い、免許を更新し続けるのではないだろうか。

ただ、この免許システムを採用すると、売上ランキングの上位を占めるアイドルグループのほとんどを同時に排除することになり、握手会専門のグループが急増するかもしれない。

範囲が広すぎる義務教育

日本の義務教育では9年間かけて色々なことを学ぶが、そのほとんどが大人になってから役に立っていないのが現状だ。例えば、漢文、微分積分、科学反応式、鎌倉時代などは、特殊な分野のスペシャリストとして仕事をしている人以外は必要とされる状況はほとんどないのではないだろうか。義務教育とはどんな分野に進んだとしても、そこそこ役に立つような基本の能力や知識ばかりを養う教育過程だと思っていたが、実際は全く違っていた。

一般的に社会人になってからも活用できる機会が多いのは英語だ。日本には社会人を対象とした膨大な数の英会話学校や英語教材が存在する事実が、即戦力にならない教育過程であることを立証していると言っていいだろう。そもそも、文法と発音が違いすぎる日本語を母国語にする日本人にとっては、あれだけの量の文法や単語を短期間で詰め込むことに無理があるのかもしれない。もし、中学教育では実用的な簡単な単語で構成された一行程度の英文だけに限定して聞き取りと発音ができる訓練だけに専念していれば、違った結果になっていたのかもしれない。街で外国人に話しかけられた一行程度の英文さえも聞き取れなくて、ビジネスの場で使える英語につながっていくはずがない。

サッカー少年は、ボールを止める蹴るの練習を毎日何度も何度も繰り返すことで、基本の力をつけていく。辛うじてボールを止められるくらいのレベルで、システムや戦術を詰め込まれても全く吸収することはできない。どんなに速い英語で道を聞かれてもリラックスして答えられる骨太な基本の力が重要なことに日本の教育者はそろそろ気づくべきだ。