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共有

現在の日本社会が積極的になっている働き方改革において最も重要なことは共有だと思う。

社会に出たばかりの新入社員が一週間に一度集まり、それぞれの問題を共有すれば、一人で判断した解決方法よりも効果的な解決方法をみつけられるはずだ。また、他人の問題と解決方法を共有することで、短時間で多くの知恵を吸収することができる。定期的な共有する時間をすべての会社で標準装備することが働き方改革で最初にすべきことではないだろうか。

社会人1年目の社員が「電話に受けた時に先方の社名や氏名をメモする」という発想が思い浮かばず、思ったほど頼りにならなかった自分の記憶力に絶望しながら、うろ覚えの先方の社名を伝えて、先輩社員を混乱させることはよくある。これを大した問題として考慮せず、そのまま数年放置すれば、このグダグダなコミュニケーションが会社の中で標準装備されてしまうだろう。義務教育の段階で共有という授業を作り、共有の重要性を認識させるべきかもしれない。

以前に在籍した会社では、大学生や大学院生のアルバイトスタッフが曜日ごとに入れ替わるため、社員から教わった方法や指摘された箇所をイラストと文章でわかりやすくノートにまとめ、アルバイトスタッフの間でしっかりとした共有システムを作っていた。それは誰かに強制的に作らされたものではなく、厳しい要求に最大限応えるために彼らが自発的に生み出したものだ。彼らが優秀な社会人になっていることは言うまでもない。

曖昧

日本人は曖昧な表現をよく使う。職場、学校、家庭での会話では常に曖昧な表現があり、相手の気持ちを性格に把握できない場合が多い。

「この曲好きかもしれない」

この場合、好きになりかけている不確かな状況かもしれないが、ほとんどの場合は周囲とのバランスと取ろうとしているはずだ。断言せずに少しグレーゾーンに持って行っていた方が、相手や第三者がその曲をあまり好きではないという流れになった時に対立関係から逃げやすい。一種の危機管理と言えるだろう。意味の捉え方が複数ある表現で意思表示ができるおかげで、この国は平和を維持してきたのかもしれない。

「そうですね」

インタビューに答えるスポーツ選手ほとんどの第一声がこの言葉で始まる。本来は同調を表す言葉だが、考える間の時間稼ぎに使用されることが多い。インタビュアーの意見に同調していないのに「そうですね」では混乱を招く。しかし、この言葉が変な勇気を持たせている。これまでのスポーツ選手が「そうですね」を多用してきたことで、意見や考えがまとまっていなくても、「そうですね」でつなげば、まともに答えているように錯覚させているのだ。

こんな曖昧な文化でもよかったと思えることが一つある。知人と思われる人に街で声を掛けられたものの、全くその人のことが思い出せない時に最終兵器でごまかせることだ。

「どうも」

仮説

可能性の低い仮説を立てることが習慣になっている。

例えば、見知らぬAさんが混んでいる電車の中で大きく股を開いて横柄に立っているとする。単純に電車に乗って来た時から横柄に立っていたと考えることが最も簡単ではあるが、あえて少し可能性の低い方向で仮説を立ててみる。足を投げ出して熟睡しているBさんの前にAさんが立ったため、AさんはBさんの足をまたぐように立つことになったが、Aさんが気づかない間に熟睡中のBさんが無意識に足を引っ込めた。こんな風に可能性の低い仮説によって登場人物の印象をガラリと変えることがおもしろい。

過去に長く在籍した会社の入社試験の時もそうだった。最終面接後に交通費として会社から受け取った封筒には請求額よりも1万円多く入っていた。そのことに気づいた時、単純に経理担当者の間違いとは考えず、また少し可能性の低い方向で仮説を立てていた。それは、人間性を量るための最終試験として、会社がわざと1万円多く入れたという仮説だ。実際は経理担当者の間違いだったのだが、人間性を量るためには、うってつけの方法ではないかと思う。しかし、健全な会社としては姑息な手段を使う訳にはいかないのだろう。

少し無理があり、可能性の低い仮説を立て続けることは、10年後に優等生になっているはずのAIと戦えるユニークな思考につながるのかもしれない。きっと、完璧な考えで溢れる10年後には、ダメージジーンズのような不完全な考えの方が価値を持つはずだ。

歌手

スポーツ選手は一度引退すれば復帰することはほとんどないが、歌手が一度引退してから復帰することはよくある。しかし、復帰した歌手が全盛期を超えるパフォーマンスをすることはめったにない。ただ、もう一度やってみたいという本人がの意思だけで、復帰ができてしまうプロ意識のない生ぬるい環境が存在するように感じる。

スポーツ選手が試合に出るためには、過去の実績よりも周囲の選手や監督を納得させられる現在の実力が求められる。その一方で名前は同じでも長年の主婦生活などでトレーニング不足で、質が落ちているにも関わらず、高額なギャラでテレビに出演してたり、ライブ活動をする歌手がいる。賞味期限切れの高級和牛を売っているくらいの詐欺だ。ブランド肉の品質管理に厳格な基準があるように、歌唱力にも厳格な基準を作るべきだ。

ボイストレーナーやミキサーなどで組織を作り、発声、音程、リズムなどを半年ごとに厳正にチェックして、一定のレベルに達している人だけに歌手としての免許を発行するシステムを取り入れてはどうだろうか。ボイストレーニングを一切せずに自分の生活を安定させるためだけに復帰しようとする詐欺師を排除できるはず。いつか復帰するかもしれないと思う元歌手はボイストレーニングを継続的に行い、免許を更新し続けるのではないだろうか。

ただ、この免許システムを採用すると、売上ランキングの上位を占めるアイドルグループのほとんどを同時に排除することになり、握手会専門のグループが急増するかもしれない。

基本

日本の義務教育では9年間かけて色々なことを学ぶが、そのほとんどが大人になってから役に立っていないのが現状だ。例えば、漢文、微分積分、科学反応式、鎌倉時代などは、特殊な分野のスペシャリストとして仕事をしている人以外は必要とされる状況はほとんどないのではないだろうか。義務教育とはどんな分野に進んだとしても、そこそこ役に立つような基本の能力や知識ばかりを養う教育過程だと思っていたが、実際は全く違っていた。

一般的に社会人になってからも活用できる機会が多いのは英語だ。日本には社会人を対象とした膨大な数の英会話学校や英語教材が存在する事実が、即戦力にならない教育過程であることを立証していると言っていいだろう。そもそも、文法と発音が違いすぎる日本語を母国語にする日本人にとっては、あれだけの量の文法や単語を短期間で詰め込むことに無理があるのかもしれない。もし、中学教育では実用的な簡単な単語で構成された一行程度の英文だけに限定して聞き取りと発音ができる訓練だけに専念していれば、違った結果になっていたのかもしれない。街で外国人に話しかけられた一行程度の英文さえも聞き取れなくて、ビジネスの場で使える英語につながっていくはずがない。

サッカー少年は、ボールを止める蹴るの練習を毎日何度も何度も繰り返すことで、基本の力をつけていく。辛うじてボールを止められるくらいのレベルで、システムや戦術を詰め込まれても全く吸収することはできない。どんなに速い英語で道を聞かれてもリラックスして答えられる骨太な基本の力が重要なことに日本の教育者はそろそろ気づくべきだ。