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過程

出来事の過程を想像することが習慣になっている。

例えば、見知らぬAさんが混んでいる電車の中で大きく股を開いて横柄に立っているとする。単純に電車に乗って来た時から横柄に立っていたと想像もできるのだが、あえて少し可能性の低い方向で想像してみる。たまたまAさんが足を投げ出して熟睡しているBさんの前に立ったため、AさんはBさんの足をまたぐように立つことになった。その後、Aさんが気づかない間に熟睡していたBさんが無意識に足を引っ込めた。想像する過程によってAさんの印象は大きく変わる。

過去に長く在籍した会社の入社試験の時もそうだった。最終面接後に交通費として会社から受け取った封筒には請求額よりも1万円多く入っていた。そのことに気づいた時、単純に経理担当者の間違いとは考えず、また少し可能性の低い方向で想像していた。それは、最後に人間性を量るための最終試験として、わざと1万円多く入れたという過程だ。実際には、経理担当者の間違いだったと聞いたのだが、もし試験であったのであれば、人間性を量るためにはうってつけの方法だったのではないかと思う。

当たり前ではない方向で出来事の過程を想像する習慣を続ければ、10年後にはAIと戦えるをユニークな思考を養っているのかもしれない。

歌手

スポーツ選手は一度引退すれば復帰することはほとんどないが、歌手が一度引退してから復帰することはよくある。しかし、復帰した歌手が全盛期を超えるパフォーマンスをすることはめったにない。ただ、もう一度やってみたいという本人がの意思だけで、復帰ができてしまうプロ意識のない生ぬるい環境が存在するように感じる。

スポーツ選手が試合に出るためには、過去の実績よりも周囲の選手や監督を納得させられる現在の実力が求められる。その一方で名前は同じでも長年の主婦生活などでトレーニング不足で、質が落ちているにも関わらず、高額なギャラでテレビに出演してたり、ライブ活動をする歌手がいる。賞味期限切れの高級和牛を売っているくらいの詐欺だ。ブランド肉の品質管理に厳格な基準があるように、歌唱力にも厳格な基準を作るべきだ。

ボイストレーナーやミキサーなどで組織を作り、発声、音程、リズムなどを半年ごとに厳正にチェックして、一定のレベルに達している人だけに歌手としての免許を発行するシステムを取り入れてはどうだろうか。ボイストレーニングを一切せずに自分の生活を安定させるためだけに復帰しようとする詐欺師を排除できるはず。いつか復帰するかもしれないと思う元歌手はボイストレーニングを継続的に行い、免許を更新し続けるのではないだろうか。

ただ、この免許システムを採用すると、売上ランキングの上位を占めるアイドルグループのほとんどを同時に排除することになり、握手会専門のグループが急増するかもしれない。

基本

日本の義務教育では9年間かけて色々なことを学ぶが、そのほとんどが大人になってから役に立っていないのが現状だ。例えば、漢文、微分積分、科学反応式、鎌倉時代などは、特殊な分野のスペシャリストとして仕事をしている人以外は必要とされる状況はほとんどないのではないだろうか。義務教育とはどんな分野に進んだとしても、そこそこ役に立つような基本の能力や知識ばかりを養う教育過程だと思っていたが、実際は全く違っていた。

一般的に社会人になってからも活用できる機会が多いのは英語だ。日本には社会人を対象とした膨大な数の英会話学校や英語教材が存在する事実が、即戦力にならない教育過程であることを立証していると言っていいだろう。そもそも、文法と発音が違いすぎる日本語を母国語にする日本人にとっては、あれだけの量の文法や単語を短期間で詰め込むことに無理があるのかもしれない。もし、中学教育では実用的な簡単な単語で構成された一行程度の英文だけに限定して聞き取りと発音ができる訓練だけを徹底していれば、違った結果になっていたのかもしれない。街で外国人に話しかけられた一行程度の英文さえも聞き取れなくて、ビジネスの場で使える英語につながっていくはずがない。

サッカー少年は、ボールを止める蹴るの練習を毎日何度も何度も繰り返すことで、基本の力をつけていく。辛うじてボールを止められるくらいのレベルで、システムや戦術を詰め込まれても全く吸収することはできない。どんなに速い英語で道を聞かれてもリラックスして答えられる骨太な基本の力が重要なことに日本の教育者はそろそろ気づくべきだ。

訴求

日本の奇妙な文化としてパッケージに貼られる訴求シールがある。もう何十年も続く日本独自の文化だ。基本デザインの上に堂々と貼られる「No.1」や「おいしくなりました」の文字にどれだけの効果があるのかといつも疑問に思う。

パッケージデザインに関わって20年近くになるが、この訴求シールに効果があったと実感したことは一度もない。スーパーやドラッグストアで何も考えず空っぽのような意識で訪れる人がほとんどなので、「見ていない」というのが率直な意見ではないだろうか。訴求シールを利用している唯一のブランドなら機能するのかもしれないが、全ブランドが当たり前のように利用していては説得力は無に等しい。

一番の問題は、基本デザインが隠れた状態で商品を選ぶことだ。もしもCDショップで3cm角の訴求シールが中心部に貼られる仕組みを導入したらどうなるだろうか?ネットショッピングに対して唯一の武器である「手に取って選ぶ楽しさ」を奪うことになり、CDショップは世の中からすぐに消えてしまうだろう。購買意欲をそぎ落とす訴求シールの仕組みは経済的な損失を生んでいると言える。

日本の美意識は、ものの本質だけで成立させる簡潔性にあったはずだ。一年間限定で国内すべてのパッケージ上の訴求シールを禁止して、基本デザインだけで勝負する日本を試してみてはどうかと思う。きっと目深に帽子を被ったモデルたちをオーディションするような毎日から解放された喜びの声が多数あがるだろう。

教養

一昔前のレンタルビデオ店では、がっかりさせられることが多かった。会社から帰宅する深夜にお店に行くと、わざわざ深夜に返却する人がほとんどいないので、借りたいと思っていた新作はどれもレンタル中になっていることが多かった。新作にめぐり遭う頃には、もはや新作ではなくなってしまっていた。ほとんどの場合、まだ観ていなかった古い名作映画を借りるようにしていた。データでレンタルできる時代になってからは、確実に新作映画を観ることができるようになったが、「まだ観ていなかった古い名作映画」を観る機会を完全に失った。

「まだ観ていなかった古い名作映画」とは、評判はかなり良いのだが、自分の趣味嗜好から少し外れていていた映画のことだ。断固として観ることを拒否をしていた訳ではなく、誰かにそっと差し伸べてもらえれば観ることができた映画だ。新作がすべてレンタル中であったため、一時的にどうでも良くなってしまった心境が許容範囲を広げてくれていたのだと思う。100%とはいかないが、そういう心境から借りた映画に大満足したことが何度もあった。偶然手にした教養の範囲を広げてくれるシステムだったと言ってもいいだろう。

好きなものにピンポイントで手が届きすぎる現代に少し不安を感じる。自分の趣味嗜好から少し外れたら、一生触れる機会を失う可能性だってある。次のレンタル映画サービスには、ロシアンルーレットのように1/6の確率で全く異なるジャンルの映画がレンタルされてしまう不確実なボタンを付けても面白いのかもしれない。