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音量

ネットの動画配信サイトが当たり前のようになった今でも不便なことが一つある。それは一定にならない音量を手動で調節しなければならないことだ。

例えば、放送後のテレビ番組を配信するサイトでは、テレビと同じくらいのペースでCMが入ってくる。そのCMの音量がコンテンツの音量よりも異常に大きくなっていることが多い。さらに、CMの音量も一定ではないので、音量を一定にするためにはCMごとに微妙な音量調整が必要になる。最終的には微調整することが面倒になり、CMになるとミュートにして完全に音を消すことになる。これが面倒で視聴することを断念したこともある。

そもそも、こんな扱いを受けている爆音のCMに価値があるのだろうか。がさつに視聴を妨げるCMを通して、広告主、宣伝される商品、背景で流れる音楽すべてに対して嫌悪感を感じる人も少なくないだろう。イメージを損なわない安全なCMにするためには、音量が一定になっているかどうかを誰かが真剣に管理することが必要だ。

アプリケーション内限定ではなく、スマホやPCから出力されるすべてのコンテンツごとの音量を自動的に一定にする機能をデフォルトで加えるという改善策もある。なぜこのことに気づけていないのかが不思議だ。こういった問題にこそAIの技術を活用すべきだ。映像や音楽コンテンツ一つひとつを瞬時に厳密な解析をして、様々な環境ごとに合わせて、一定に聞こえる音量に調整してくれれば最高だ。

声で明日の天気を聞き出すことよりもAIの価値ある活用方法だと思う。

座席

東京を走る電車のほとんどの座席は、1人分がくぼみで明確になっている7人掛けロングシートだ。このくぼみが2人分くらいのスペースを確保しようとする無礼な人をうまく排除する。しかし、この1人分のスペースは非常に狭い。おそらく、快適に感じられる限界点は、ロングシートに座った全員が細身の男子高校生の場合までではないだろうか。メタボリック体型のサラリーマンが2人以上混じれば、隣からの圧力に苦痛を感じて座ったことを後悔した経験がある人は少なくないのではないのだろうか。通勤ラッシュばかりを考慮して、無理にたくさん座らせることだけのために設計されているように感じる。電車本来の役目は、「我慢しながらの移動」ではなく「快適な移動」のはずだ。

電車の中はスマホを使用する人だらけだ。「電車に乗っている時間=ネットにつながっている時間」と言ってもいいくらいになってきた。メッセージを打ったり、画面をスクロールするためには、自然とひじが1人分のスペースの外に出てしまう。つまり、スマホを使用するメタボリック体型のサラリーマンのシルエットを設計図面に配置しながら検証すべきなのだ。世界に誇る日本の鉄道がこういった社会的な変化に敏感に対応できていないことが非常に残念だ。

2020年の東京オリンピックまでには東京のすべての電車を6人掛けロングシートに変更して、1人分のスペースを現状の117%にするべきだと思う。そうでなければ、オリンピック招致での堂々たるプレゼンが「おもてなし詐欺」だったと世界から批判を受けることになるだろう。

 

共有

現在の日本社会が積極的になっている働き方改革において、最も力を入れるべきことは共有力の改善だと思う。

社会に出たばかりの新入社員が一週間に一度集まり、それぞれの問題を共有すれば、一人で判断した解決方法よりも効果的な解決方法をみつけられるはずだ。また、他人の問題と解決方法を共有することで、短時間で多くの知恵を吸収することができる。定期的な共有する時間をすべての会社で標準装備することが働き方改革で最初にすべきことではないだろうか。

社会人1年目の社員が「電話を受けた時に先方の社名や氏名をメモする」という発想が思い浮かばず、思ったほど頼りにならなかった自分の記憶力に落胆しながら、うろ覚えの先方の社名を伝えて、先輩社員を混乱させることはよくある。これを大した問題として考慮せず、そのまま数年放置すれば、このグダグダなコミュニケーションが会社の中で標準装備されてしまうだろう。義務教育の段階で共有という授業を作り、社会に出る前に共有を標準装備させるべきかもしれない。

以前に在籍した会社では、大学生や大学院生のアルバイトスタッフが曜日ごとに入れ替わるため、社員から教わった方法や指摘された箇所をイラストと文章でわかりやすくノートにまとめ、アルバイトスタッフの間でしっかりとした共有システムを作っていた。それは誰かに強制的に作らされたものではなく、厳しい要求に最大限応えるために彼らが自発的に生み出したものだ。彼らが優秀な社会人になっていることは言うまでもない。

曖昧

日本人は曖昧な表現をよく使う。職場、学校、家庭での会話では常に曖昧な表現があり、相手の気持ちを性格に把握できない場合が多い。

「この曲好きかもしれない」

この場合、好きになりかけている不確かな状況かもしれないが、ほとんどの場合は周囲とのバランスと取ろうとしているはずだ。断言せずに少しグレーゾーンに持って行っていた方が、相手や第三者がその曲をあまり好きではないという流れになった時に対立関係から逃げやすい。一種の危機管理と言えるだろう。意味の捉え方が複数ある表現で意思表示ができるおかげで、この国は平和を維持してきたのかもしれない。

「そうですね」

インタビューに答えるスポーツ選手ほとんどの第一声がこの言葉で始まる。本来は同調を表す言葉だが、考える間の時間稼ぎに使用されることが多い。インタビュアーの意見に同調していないのに「そうですね」では混乱を招く。しかし、この言葉が変な勇気を持たせている。これまでのスポーツ選手が「そうですね」を多用してきたことで、意見や考えがまとまっていなくても、「そうですね」でつなげば、まともに答えているように錯覚させているのだ。

こんな曖昧な文化でもよかったと思えることが一つある。知人と思われる人に街で声を掛けられたものの、全くその人のことが思い出せない時に最終兵器でごまかせることだ。

「どうも」

仮説

可能性の低い仮説を立てることが習慣になっている。

例えば、見知らぬAさんが混んでいる電車の中で大きく股を開いて横柄に立っているとする。単純に電車に乗って来た時から横柄に立っていたと考えることが最も簡単ではあるが、あえて少し可能性の低い方向で仮説を立ててみる。足を投げ出して熟睡しているBさんの前にAさんが立ったため、AさんはBさんの足をまたぐように立つことになったが、Aさんが気づかない間に熟睡中のBさんが無意識に足を引っ込めた。こんな風に可能性の低い仮説によって登場人物の印象をガラリと変えることがおもしろい。

過去に在籍した会社の入社試験の時もそうだった。最終面接後に交通費として会社から受け取った封筒には請求額よりも1万円多く入っていた。そのことに気づいた時、単純に経理担当者の間違いとは考えず、また少し可能性の低い方向で仮説を立てていた。それは、人間性を量るための最終試験として、会社がわざと1万円多く入れたという仮説だ。実際は経理担当者の間違いだったのだが、人間性を量るためには、うってつけの方法ではないかと思う。しかし、健全な会社としては姑息な手段を使う訳にはいかないのだろう。

少し無理があり、可能性の低い仮説を立て続けることは、10年後に優等生になっているはずのAIと戦えるユニークな思考につながるのかもしれない。きっと、完璧な考えで溢れる10年後には、ダメージジーンズのような不完全な考えの方が価値を持つはずだ。

歌手

スポーツ選手は一度引退すれば復帰することはほとんどないが、日本の歌手が一度引退してから復帰することはよくある。しかし、復帰した歌手が全盛期を超えるパフォーマンスをすることはめったにない。ただ、もう一度やってみたいという本人の意思だけで、復帰ができてしまうプロ意識のない生ぬるい環境が存在する。

スポーツ選手が試合に出るためには、過去の実績よりも周囲の選手や監督を納得させられる現在の実力が求められる。その一方で名前は同じでも長年の主婦生活などでトレーニング不足で、質が落ちているにも関わらず、高額なギャラでテレビに出演してたり、ライブ活動をする歌手がいる。賞味期限切れの高級和牛を売っているくらいの詐欺だ。ブランド肉の品質管理に厳格な基準があるように、歌唱力にも厳格な基準を作るべきだ。

ボイストレーナーやミキサーなどで組織を作り、発声、音程、リズムなどを半年ごとに厳正にチェックして、一定のレベルに達している人だけに歌手としての免許を発行するシステムを取り入れてはどうだろうか。ボイストレーニングを一切せずに自分の生活を安定させるためだけに復帰しようとする詐欺師を排除できるはず。いつか復帰するかもしれないと思う元歌手はボイストレーニングを継続的に行い、免許を更新し続けるのではないだろうか。

ただ、この免許システムを採用すると、売上ランキングの上位を占めるアイドルグループのほとんどを同時に排除することになり、握手会専門のグループが急増するかもしれない。

基本

日本の義務教育では9年間かけて色々なことを学ぶが、そのほとんどが大人になってから役に立っていないのが現状だ。例えば、漢文、微分積分、科学反応式、鎌倉時代などは、特殊な分野のスペシャリストとして仕事をしている人以外は必要とされる状況はほとんどないのではないだろうか。義務教育とはどんな分野に進んだとしても、そこそこ役に立つような基本の能力や知識ばかりを養う教育過程だと思っていたが、実際は全く違っていた。

一般的に社会人になってからも活用できる機会が多いのは英語だ。日本には社会人を対象とした膨大な数の英会話学校や英語教材が存在する事実が、即戦力にならない教育過程であることを立証していると言っていいだろう。そもそも、文法と発音が違いすぎる日本語を母国語にする日本人にとっては、あれだけの量の文法や単語を短期間で詰め込むことに無理があるのかもしれない。もし、中学教育では実用的な簡単な単語で構成された一行程度の英文だけに限定して聞き取りと発音ができる訓練だけに専念していれば、違った結果になっていたのかもしれない。街で外国人に話しかけられた一行程度の英文さえも聞き取れなくて、ビジネスの場で使える英語につながっていくはずがない。

サッカー少年は、ボールを止める蹴るの練習を毎日何度も何度も繰り返すことで、基本の力をつけていく。辛うじてボールを止められるくらいのレベルで、システムや戦術を詰め込まれても全く吸収することはできない。どんなに速い英語で道を聞かれてもリラックスして答えられる骨太な基本の力が重要なことに日本の教育者はそろそろ気づくべきだ。

訴求

日本の奇妙な文化としてパッケージに貼られる訴求シールがある。もう何十年も続く日本独自の文化だ。基本デザインの上に堂々と貼られる「No.1」や「おいしくなりました」の文字にどれだけの効果があるのかといつも疑問に思う。

パッケージデザインに関わって15年近くになるが、この訴求シールに効果があったと実感したことは一度もない。スーパーやドラッグストアで何も考えず空っぽのような意識で訪れる人がほとんどなので、「見ていない」というのが率直な意見ではないだろうか。訴求シールを利用している唯一のブランドなら機能するのかもしれないが、全ブランドが当たり前のように利用していては説得力は無に等しい。

一番の問題は、基本デザインが隠れた状態で商品を選ぶことだ。もしもCDショップで3cm角の訴求シールが中心部に貼られる仕組みを導入したらどうなるだろうか?ネットショッピングに対して唯一の武器である「CDジャケットから視覚的に音楽を手に取って選ぶ楽しさ」を奪うことになり、CDショップは世の中からすぐに消えてしまうだろう。購買意欲をそぎ落とす訴求シールの仕組みは経済的な損失を生んでいると言える。

日本の美意識は、ものの本質だけで成立させる簡潔性にあったはずだ。一年間限定で国内すべてのパッケージ上の訴求シールを禁止して、基本デザインだけで勝負する日本を試してみてはどうかと思う。きっと目深に帽子を被ったモデルたちをオーディションするような毎日から解放された喜びの声が多数あがるだろう。

教養

一昔前のレンタルビデオ店では、がっかりさせられることが多かった。会社から帰宅する深夜にお店に行くと、わざわざ深夜に返却する人がほとんどいないので、借りたいと思っていた新作はどれもレンタル中になっていることが多かった。新作にめぐり遭う頃には、もはや新作ではなくなってしまっていた。ほとんどの場合、まだ観ていなかった古い名作映画を借りるようにしていた。データでレンタルできる時代になってからは、確実に新作映画を観ることができるようになったが、「まだ観ていなかった古い名作映画」を観る機会を完全に失った。

「まだ観ていなかった古い名作映画」とは、評判はかなり良いのだが、自分の趣味嗜好から少し外れていていた映画のことだ。断固として観ることを拒否をしていた訳ではなく、誰かにそっと差し伸べてもらえれば観ることができた映画だ。新作がすべてレンタル中であったため、一時的にどうでも良くなってしまった心境が許容範囲を広げてくれていたのだと思う。100%とはいかないが、そういう心境から借りた映画に大満足したことが何度もあった。偶然手にした教養の範囲を広げてくれるシステムだったと言ってもいいだろう。

好きなものにピンポイントで手が届きすぎる現代に少し不安を感じる。自分の趣味嗜好から少し外れたら、一生触れる機会を失う可能性だってある。次のレンタル映画サービスには、ロシアンルーレットのように1/6の確率で全く異なるジャンルの映画がレンタルされてしまう不確実なボタンを付けても面白いのかもしれない。

重量

宅配便などで荷物を送る時には必ず重量によってコストが変動する。誰もが当たり前のようにこのシステムを理解しているはずだ。しかし、空港ではこのシステムが完璧に反映されていないことに気づく。

国内外問わず空港に行けば荷物の重量をチェックされる。そして、エコノミーでもビジネス以上でも決められた許容重量をオーバーすると追加料金が発生する。ここまでは宅配便などと同じように重量でコストが変化するシステムだ。ただ、忘れてはいけないのは人も飛行機に搭乗するということだ。飛行機目線でみれば、荷物の重量と人の重量の両方で負荷をかけられる。しかし、実際には10kgの軽い荷物を持つ120kgの肥満体型の人と許容重量オーバーである30kgの荷物を持つ60kgの小柄な人では後者の方がコストが高くなる。荷物と人の総重量として比較すれば、圧倒的に前者の方が大きいにも関わらず、後者だけ余分な追加料金を請求されてしまうのである。エコノミーでは肥満体型の人が隣の席の人を圧迫してしまうことは頻繁に起こる。それなのにその余分な脂肪に超過料金が適用されないのは不思議だ。

荷物と人の総重量で許容重量を設定するユニークな航空会社が1社でも出てきて欲しいものだ。アジア人と欧米人ではもともと骨格が圧倒的に異なるので、欧米人の目線では不公平なように見えるかもしれないが、世界全体でのダイエット促進に一役買うことができるのかもしれない。