プロ野球選手の体脂肪率10%以下を義務化

この10年間で国内の野球競技人口は右肩下がりで減少している。サッカーやバスケットボールの競技人口が安定していることを考えれば、野球の人気が急落しているのは間違いない。最近のバラエティ番組内でジャイアンツの中心選手がサプライズで登場したのだが、スタジオ内の歓声が想像していた歓声の半分以下程度だったことに驚いた。野球にそれほど興味のない子供たちは、現役プロ野球選手ひとりの名前も知らないのかもしれない。このまま野球がマイナースポーツの道を辿っていけば、運動能力の高い子供たちのほとんどがサッカーやバスケットボールに流れていきそうだ。

メジャーリーグの豪快なホームランやピッチングに見慣れてきた昨今、プロ野球界がやるべきことはメジャーリーグと明確な差別化を図ったブランディングだと思う。白人や黒人と骨格の大きさが全く異なる日本人の野球がメジャーリーグのようなパワー重視のプレーを目指すれば、自らメジャーリーグと比べて見劣りする野球だということを宣伝することになってしまう。日本人の強みである敏捷性だけにフォーカスして、世界に誇れる唯一無二の野球文化を構築していくべきではないだろうか。高い敏捷性を持ったイチローのプレーに多くの国民が魅了されたことが進むべき方向性を証明したように思う。この方向に進むためにはプロ野球界全体で選手の高すぎる体脂肪率を大きく改善する必要がある。筋肉はそこそこあっても、体脂肪率が18%以上ありそうな選手ばかりに見える。高い年俸で毎日高級な焼肉を腹一杯食べています、と言わんばかりの腹回りの贅肉が腹立たしく思うこともある。そもそも、子供たちがそんなだらしない体型のスポーツ選手に憧れるはずがない。プロ野球選手の体脂肪率を10%以下に保つことを義務化してはどうだろうか。開幕戦7日前に全選手の体脂肪率を測定し、10%以下の選手だけが試合に出場できるというルールだ。全選手が体脂肪率10%以下になった状態で試合が行われていけば、超高速のバッティングやキレッキレのグラブさばきが見られる機会が大幅に増えて、数年後には現在のファインプレーが普通のプレーに格下げになるだろう。そして、ある意味ではメジャーリーグよりも魅力のある野球として世界中で認識されるかもしれない。

ジャイアンツやタイガースというチーム名からもプロ野球がメジャーリーグを真似てきたことが推測できる。しかし、軽量化を強みにした日本の自動車産業を参考にすれば、日本ならではの進化を真剣に考えなくてはならない気がする。





ドラマのキャストと撮影場所の数を縮小

テレビで日本のドラマを観るよりもネットでNetflixやHuluなどで海外ドラマを観た方が満足度が高い。こう感じる人は確実に増えてきているはずだ。海外ドラマに慣れてくれば、ストーリー以前に映像の質に大きな差を感じて、日本のドラマを観るモチベーションがなくなるのではないだろうか。特に日本のアクションやサスペンスのドラマでは、ニュース映像と変わらない生っぽい色合いと平凡で厚みのない背景のために、緊迫感や重厚感を感じることができない。海外のドラマは撮影後にカラーグレーディングという作業で映像の色合いの質を高めたり、高度なCG合成で実際に撮影できない肉厚な背景をリアルに表現するのだが、日本のドラマでは撮影後の映像加工作業に予算をあまり割り当てられないことがほとんどだ。もちろん、アメリカのドラマなどと比較すれば、日本のドラマの製作費は圧倒的に少ないのだが、それを説得力のある映像が作れない言い訳にしてはならない。日本のドラマにカラーグレーディングやCG合成が標準的に導入されなければ、これらの映像技術はアメリカやヨーロッパなどから大きな遅れを取ることになるだろう。

製作費の割り振りに変化をつければ、新しい可能性が生まれるのではないだろうか。キャストと撮影場所の数を半分以下に減らし、撮影後の映像加工作業にも予算を割り当てたドラマとして構成すれば、少なくとも説得力のある映像を作れるはずだ。例えば、5人のキャスト、8階建てのビル、カラーグレーディング、CG合成という組み合わせにすると、キャストと撮影場所を絞ったことで、撮影後の映像加工作業のために相当なコストを割り振ることで可能となる。舞台がビルのみであれば、CG合成をフル活用して重厚感のある空間をしっかり表現し、小規模ながら本格的なドラマが製作できそうだ。最近のヒットした漫画や海外ドラマに頼ろうとするお決まりの流れにはうんざりしている。これらがベースとなるから、キャストの数や撮影場所の数が自動的に固定されてしまうのだ。コロナ渦で大がかりな撮影が困難な社会状況だからこそ、こういうキャストと撮影場所の数を縮小したドラマ製作をチャレンジする価値があるように思う。

テロと戦うハイテク政府機関を描いた『24』の日本版の映像は、予想以上に薄っぺらかった。しかし、映像以上にセリフの方がもっと恥ずかしく感じた。アメリカ文化からそのまま持ってきたようなセリフが日本人俳優から発せられると、スーパー戦隊シリーズのような雰囲気になるのだ。テレビ朝日開局60周年として狙った戦略なのだろうか。





説明力を向上させるための授業科目を新設

社会人になると説明することが重要な仕事になる。学生時代でも友達や家族に何かを説明する機会はたくさんあるのだが、責任が問われない環境では、説明力のレベルアップはほとんど期待できない。つまり、説明下手な学生はそのまま説明下手な社会人になってしまう。そして、自分が説明下手と気付くのは、入社後にものごとをうまく説明できず、仕事がスムーズにこなせない状況を実感した時だろう。しかし、うまく説明ができなくても、上司がお手本の説明を教えてくれたり、説明のコツなどを親切丁寧に教えてくれる会社はそれほどないだろう。常に向上心を持ちながら、自分の説明がうまくできたかどうかを気にして仕事をしていれば、説明力は確実に向上するのだが、元々の説明力が低すぎるために早々と多くのトラブルを招いてしまい、レベルアップの前に仕事に対する自信やモチベーションを失う可能性もある。

説明力を向上させることに特化した授業科目を中学と高校で新設して欲しい。正しい日本語を使うことよりも、効率良く情報を伝えることに重点を置いた授業だ。幅広い分野からほとんどの人がよく知っていることをお題にし、生徒がそれについて最短距離で説明を考えていく。例えば、「めがね」というお題を出せば、生徒から「めがねは丸いレンズが2枚付いた道具です」や「めがねは視力を矯正する道具です」などの説明が出る。どちらも間違いではないが、比較することで後者の方が本質を捉えていることに気づくだろう。この気づきこそが、この授業の重要なメリットだ。頭の中で情報を徹底的に整理し、絶対に外せない本質だけを抜き出せているかどうかで、効率の良い説明ができるかどうかが決まる。難しい言葉は不要だ。むしろ、得た情報をできるだけ簡単な言葉で置き換えれれば、より多くの人に伝わる情報になるからだ。学生時代から上質な説明に慣れることで、冒頭から無駄な情報で埋め尽くし、何を伝えたいのかがよくわからない報告メールを大幅に減少させることができるはずだ。無駄なメールのやり取りをなくせば無くすほど、全ての会社が大きく前進できると言っても過言ではないような気がする。

ほとんどの社会人が古文と漢文の知識を一度も使うことがないことを考慮すれば、古文と漢文の授業を説明力の授業に差し替えても良いのではないだろうか。コミュニケーションの中で一生使うことのない古文の単語を覚えるために膨大な時間を費やしたことが、いとくちをしと思へり(とても残念だと思う)。





歌手の免許制度を導入

スポーツ選手は一度引退すれば復帰することはほとんどないが、日本の歌手が一度引退してから復帰することはよくある。しかし、復帰した歌手が全盛期を超えるパフォーマンスをすることはめったにない。小さい頃に好きだった歌手の変わり果てた掠れ声や音程のズレに落胆したことが何度もある。子育てが一段落したので、もう一度やってみたいというお気楽な意思だけで、復帰ができてしまうプロ意識のない生ぬるい環境が存在する。これほど、歌手に甘い国は日本くらいではないだろうか。少なくともアメリカでは完成されていない歌唱力がビジネスに発展することはないはずだ。スポーツ選手が試合に出るためには、過去の実績よりも周囲の監督や選手を納得させられる現在の実力が求められる。数ヶ月前に戦力外になった選手でさえもトライアウトでしっかり実力を確認する。その一方で引退以降は長年の主婦生活などで歌唱トレーニングを一切していないにも関わらず、衝動的に復帰して、楽曲販売したり、ライブをする歌手がいる。そして、その現状の実力を深刻な問題と捉えず、ビジネスにしようとするレコード会社、運営会社もある。彼らには賞味期限切れのブランド肉を通常価格で販売しているくらいの詐欺をしているという認識はないのだろうか。ブランド肉の品質管理に厳格な基準があるように、プロの歌唱力にも厳格な基準を作るべきだ。

ボイストレーナーやミキサーなどで組織を作り、発声、音程、リズム感などを半年ごとに厳正にチェックして、一定のレベルに達している人だけに歌手としての免許を発行するシステムを取り入れてはどうだろうか。歌手免許がないと楽曲販売やライブなど有料の活動ができない仕組みがあれば、ボイストレーニングを一切せずに自分の生活を安定させるためだけに引退を撤回する詐欺師を排除できるはずだ。いつか復帰することを前提に活動を休止する歌手はボイストレーニングを継続的に行い、免許を更新し続けるに違いない。こんな風に日本の音楽ビジネスがプロ意識の高い歌手だけで構成していけば、世界相手でも歌唱力に自信を持つモンスターが出現するかもしれない。カラオケという言葉は、世界の共通言語になっているのに、日本人の歌唱力が圧倒的に低いことを我々は何となく感じている。

ただ、歌手の免許システムを採用すると一つ問題が発生するだろう。売上ランキングの上位を占めるアイドルグループのほとんどを同時に排除することになり、握手会専門のグループが急増しそうだ。





義務教育を基本力だけに限定

日本の義務教育では9年間かけて色々なことを学ぶが、そのほとんどが大人になってからほとんど役に立っていないのが現状だ。例えば、古文、微分積分、科学反応式、鎌倉時代などの知識を社会人になってから何割の人が活用できているのだろうか。義務教育とはどんな道に進んだとしても役立つような基本の知識ばかりで構成されていると思っていたが、社会人になってから役に立ったことを探す方が難しい。

社会人のスキルに確実につながるような知識だけに絞った教育に変更するべきではないだろうか。一般的に社会人になってからも活用できる可能性が高い教科は間違いなく英語だろう。しかし、目視しないと頭に入ってこない筆記試験専門の英語力を身につけても、その英語力がビジネス英語力につながっていかないことをほとんどの社会人は実感しているはずだ。日本には社会人を対象とした膨大な数の英会話学校や英語教材が存在する事実が、社会では通用しない英語教育であることを証明しているようなものだ。そもそも、英語とは発音も文法も違いすぎる日本語を母国語にする日本人にとっては、義務教育の間にあれだけの量の単語や文法を短期間で詰め込む学習スタイルがかなり強引であるように思う。一部分だけを完璧に磨き上げるという発想はなかったのだろうか。

「How do I get to Shibuya Station?」

中学教育ではこれくらい簡単な単語で構成された短い英文の聞き取りと発音が完璧にできるようになることだけを目標としてはどうだろうか。短い英文でも単語がつながって音声変化されたネイティブの発音と自分のイメージしていた発音が全く違っていて聞き取れない経験を何度もしてきたはずだ。そのギャップを埋めるためには、自然な英語に何度も繰り返し触れて、同じように発音できるようにするべきだ。簡単な英文ならどんなに速いスピードで質問されても、リラックスして答えられる骨太な基本の英語力が最初に必要なことを日本の教育者はそろそろ気づいて欲しい。

サッカー少年はボールを止める蹴るの練習を毎日何度も何度も繰り返すことで、ボールを自由自在にコントロールできる基本の力をつけていく。辛うじてボールを止められるくらいのレベルで、いきなりシステムや戦術を詰め込もうとするコーチはいない。義務教育のゴールを置く位置がズレているのではないだろうか。